アスレチックにヤングハズバンド兄弟の話があったためまとめます。
チェルシーアカデミー出身の兄のジェームズと弟のフィルのヤングハズバンド兄弟は、フィリピン代表として長年活躍を続けていました。
特にフィルは、チェルシーアカデミーにおいてもけっこうな活躍を見せていた(2003/04、2004/05シーズンのユースの得点王)ため、同じアジア人としてずっと応援していました。
途中、サッカーを辞めたような時期もあって心配していたのですが、サッカー界に戻ってフィリピン代表でも活躍を続けていることは知っていました。
確か日本への来日もあったかな?
先日、フィルが引退の報告をしていたときには、少なからずショックを受けたのですが、今回こういう形で2人のインタビュー記事(「フットボールマネージャーのおかげでフィリピンのアイコンに」)がありましたので、簡単に訳しておきます。
ヤングハズバンド兄弟について
チェルシーアカデミーを卒業した2人の兄弟は、イングランドでは成功を得ることができずに終わりましたが、フィリピンでサッカーのスーパースターとなりました。
2人は、フィリピン代表チームの歴史の中で最も重要な役割を果たしました。
ヤングハズバンド兄弟の母は、1985年にフィリピンのマニラからロンドンに移住することにしました。そこで、公認会計士であり、結婚相手でもあるフィリップ・ヤングハスバンドと出会いました。
3人の子供ができ、ジェームズとフィルの息子2人と、ケリーという名の娘1人です。
チェルシー加入へ
ジェームスとフィルはマンチェスター・ユナイテッドを応援して育ったが、チェルシーが1997年に2人の有望なフィリピン人をアカデミーに入れました。
当時のチェルシーはヴィアリが監督でした。
2人はアカデミーやリザーブチームの試合に出ていました。そんな中の2005年にユースの責任者であるニール・バースがフィリピンサッカー連盟から連絡があったことを告げます。
10代のチェルシーファンがフットボールマネージャー(※サッカーゲーム)で遊んでいた時にヤングハズバンド兄弟がイングランドとフィリピンの二重国籍であることに気づき、フィリピン代表の出場資格の可能性を知らせたからです。二人はこのチャンスに飛びつきました。
ジェームスとフィルは2005年の夏、フィリピン代表チームで初めてトレーニングを受けました。
ジェームズのチェルシーでの生活
兄のジェームズは、ベッカムをモデルにした右MFであり、フアン・セバスティアン・ベロンとペアを組んだ時のことをよく覚えているそう。「ベロンは本当にいい人だった。マンチェスター・ユナイテッド時代の話をしてくれた。」と言います。
ジェームスはモウリーニョ監督の下でのプレーを経験しています。「彼は励ましてくれた一方で、常に気を引き締めてくれた。彼はいつもよく見てくれていたから、モウリーニョに印象を与えたかった。」
代表への道のりとは一転、2006年夏にチェルシーとの契約が満了したジェームズはフリー契約になり、イングランドの下部リーグでのトライリストとしての生活を送ることになります。
ジェームスは、AFCウィンブルドンや地元のステインズ・タウンでのプレーに加え、国内のクラブでもトライアルを経験していました。
また、当時チェルシーのテクニカルディレクターを務めていたフランク・アーネセンが、オランダのクラブ、デン・ボスとのトライアルを手配したこともありましたが、うまくいきませんでした。
ジェームズは、サッカーから少し離れ、ロンドンではモデルやテレビの仕事を少ししました。
フィルのチェルシーでの生活
チェルシーのスター選手達との思い出を振り返っています。
「モウリーニョはフィリピンの文化、サッカーあらゆることについて質問してきました。」
「ドログバとは何度か会話をしたが、彼はいつも親切でした。彼はアフリカのことを話し、私はアジアのことを話し、お互いを比較していました。」
「ジョン・テリー、フランク・ランパード、ジョー・コールなど、イングランドの選手たちとはもっと会話をしました。
ベッカムが行く約1ヶ月前にLAギャラクシーにローンの話がありました。ジョー・コールも良い移籍だとアドバイスしてくれました。」
「あるセッションの最後にロッベンとフリーキックの練習をしたのを覚えています。レアル・マドリーに移籍する直前の日だったと思う。
風が強かったので、うまく蹴ったのにそれが戻ってきて、結局枠から外れたんだ。ロッベンは、ただ『フィル、入れろ。フィル、入れてくれ』と言ったんだ。」
そんなフィルも、2008年にチェルシーでの契約が満了。
フィリピンに行き、モデルの仕事や歌番組に出演。歌番組では、リアーナの「アンブレラ」を歌ったそう。
フィリピン代表での活躍へ
2010年のスズキカップが開催される頃には、家族はフィリピンに定住しており、二人の兄弟は代表チームの歴史の中で最も輝かしい瞬間に重要な役割を果たしました。
フィリピン代表は、誰もが信じていなかった史上初のノックアウトステージ進出を果たすことができました。フィリピン国内での衝撃は相当なものだったそう。
フィルによると、フィリピンに戻ってきたら、パッキャオの試合の時と同じくらいのメディアの量になっていたそう。
「到着した空港で記者会見を行い、何百台ものカメラがありました。今まで見たことのないような光景で、私たちが特別なことをしたと実感した瞬間でした。準決勝の前にマニラでトレーニングをしていたのですが、その時は席が完売していました。」
フィリピン代表は準決勝で敗れましたが、フィリピンではサッカーへの関心が急上昇しました。
2009年に設立されたユナイテッド・フットボール・リーグ(UFL)には投資が殺到し、ヤングハズバンド兄弟はインドネシアのジャカルタFCからの高額なオファーを断って、UFLの成長を支援しました。
二人はそれ以来、フィリピンのクラブでサッカーをしていますが、ほとんどいつも同じチームでプレーしています。
フィルは歴代のゴールランキングのトップに。その3分の1は、ジェームズの力によるものだったと言います。
フィリピン代表はヤングハズバンド兄弟の貢献によって、その後、FIFAランキングで史上最高の111位を達成し、ワールドカップ予選で史上初の勝利を記録し、2019年のアジアカップでは史上初のグループステージ進出を果たしました。
現在のヤングハズバンド兄弟
現在32歳のフィルは、代表戦108試合出場の記録を作った上で現役を引退。
現在は、妊娠中の妻と息子を育てるためにイングランドに戻っています。
現在33歳で101の代表キャップを誇るジェームズは、現在もマニラでプレーを続けています。
二人とも、フィリピンのサッカーの知名度と質の向上に貢献し続けたいと考えており、サッカースクールを発展させていきたいと考えているそうです。
現在のチェルシーについて
二人とも今でもチェルシーを応援しており、今シーズンはランパードが若手をよく活用する姿を喜んで見守ってきました。
「彼らにはチャンピオンズリーグへの出場権を獲得してもらいたいし、移籍マーケットが再開した時には、チェルシーが何を構築しようとしているのかを見てみたいと思っている。
ランパードはいいバランスを作ることができると確信している。
ファーストチームの何人かがアカデミーのユニフォームを着てSNSに写真を投稿しているのを見て、僕もそのユニフォームを着ていたことを覚えている。僕が10代の頃は、彼らは小さな子供だった。キャリアはあっという間だ」とジェームズは言います。
チェルシーサポーターでもこのヤングハズバンド兄弟の話を知っている人は多くないと思ったため、記事にしてみました。
チェルシーに所属したごくわずかのアジア人のうちの2人です。
いろんな経験をしながらも、フィリピン代表として歴史を作ったことはカッコいいですね。今後の活躍も注視していきます。
コメント